2020/05/26 14:02




『カタチになれなかったものたち』

突然ふっと湧いては霧のように消えてゆくイメージを
掴みかけては見失い そうして増えてゆく
カタチになれなかったモノ(物体)たちを
ただぼんやり眺めているだけの日々もある。


カタチになれなかった「むけい」のモノたちを見つめながら
それが意味するもののことを 自分を含めて背後から
俯瞰して捉え直す中で

創造力を支えるもののこと
カタチを生み出す力のこと
そうした誕生の背後にある
「無形」の存在が見えてくる。

イメージもヴィジョンも朧げな状態で
だが何故だかそうしてと言われた気がして
見切り発車的に体が動き始めた結果
皆目わけが分からなくなって迷走に陥る。
当然といえば当然だけれど


『迷走』

とは 「ワタシ」 と 「相手」との
新しい繋がりや関係性を育んでゆく手前の
手探りの状態を言うのだろう。

見切り発車で身体が動いてしまうのは
無意識は朧げではありながら 既に
新たなる道筋の光を捉えているから。
きっと何かに "呼ばれた気がする" からで
暗闇に手を伸ばす様に光を手探りしている状態だ。
きっと扉はそう遠くはないのだけど


「ワタシ」が其処に追いつくまで
ただ待つこと  諦めてしまわないこと
が必要なこともある。
その先で きっと "出逢い" はやってくる。


ここ数か月の制作はそんな感じで まだ道の途上ですが
ままならないこともこうした凡てもひっくるめてが
今此処を生きている。
という実感でもあります🙂


こうして自分に軌跡があるのと同様に
凡ての人に 歩いてきた道が必ずあることを想います。
そして凡ては道の途上。



自粛期間でもあったこの数ヶ月
皆さまはどんな日々を過ごされていましたか😊?




『気づく』ということ


「気づく」とは
今まで知らなかった領域の扉に
触れたことをいう。

頭の中の 計算式で打ち出したような状態ではない。
身体を通して体感が伴った時
初めてその享受に至れる。
答えが後から 向こう側からやってくること
体験を伴わずして訪れないもの。
そしてその扉の先の 新しい領域の拡がりが
直観として見えてくる時
『気づく』は道に繋がる。
体感から享受したものには深い響きがある。
其処が 思考だけの考えや
見聞きしただけのコトバとの大きな違い。


ある「気づき」から
「気づく」そのものにも
「気づく」という自分のお話。笑


この先何度
『気づく』を享受できるだろうか。


「自分を生きる」ようになると
目の前に起こる現象の見え方が
少しづつ変わってゆく。というより...
現象と意識との繋がりがより深くなってゆく。
これはその人にしかわからないことだけれど
自分を生きれば生きるほど
身体との繋がりが深くなるということだ。
これほどユニークで暇がなくて
手がかかってアドベンチャーなものはない。
と想う😃


「自分を生きる」って
おもしろいですね。